東京でプログラマーとして働いていた私(筆者)が、20代で地元・長野県にUターン転職を決意。地元企業で営業や生産管理を兼務する中で直面した課題や感じたやりがい、そしてキャリアの新たな可能性とは?都会とは異なる環境で「働く意味」を見つめ直した私の実体験をお届けします。
今の仕事ってどうなのかな?これからのキャリアプランを考えた場合転職するべきなのか?と思っている方にはきっと役に立つはずです。
20代 転職を考えた理由:東京での葛藤と地元長野への想い
私は長野県の高校を卒業後、東京の専門学校に進学し、プログラマーとして働き始めました。夢だったIT業界での仕事を手に入れ、刺激的な都会生活に胸を躍らせていましたが、バブル崩壊が訪れると、勤めていた会社の業績が悪化。経営不安が漂う中、自分のキャリアにも疑問を抱き始めました。
「このまま東京でプログラマーとして働き続けられるのか?」
適性がないなら別の業界へ進むべきか――そんな迷いが心を占めるようになりました。
そんな時、地元の企業から「一緒に働かないか」と声をかけられたのです。正直、迷いました。東京でのキャリアを手放す不安や、地元でスキルを活かせるのかという疑問もありました。それでも、家族と相談しながら「地元で働く」という選択肢を真剣に考え始めたのです。
地元で感じた課題と葛藤:中小企業ならではの現実と奮闘
地元の企業に転職し、新たなスタートを切りました。プログラマーとして採用されましたが、製造業がメインの会社で、東京での働き方とは大きく異なりました。また前職はOSシステムの開発業務でしたが、今度はお客さんと直接やりとりするシステムの開発でした。もちろん使用言語も異なります。
2年後、転職した会社の売上が落ち、「営業力の強化」が会社方針として打ち出されました。なぜか?営業課への異動が決まり、さらに生産管理も兼務することに。営業先から持ち帰ったお客様の声を現場と共有し、解決策を模索する日々が始まりました。この中小企業ならではの「兼務」は、初めての挑戦ばかりで大変でしたが、自分の成長を強く実感できる経験となりました。
一方で、都会と地方のギャップにも悩まされました。東京では24時間稼働する町の活気に囲まれ、仕事後も楽しめる場所が多くありましたが、地元では夜11時にはほとんどの店が閉まる状況。仕事と生活の切り替えが難しく感じられ、物足りなさを覚えました。
それでも、地元の仕事の中で、自分の新しい可能性を発見する機会が増えていきました。プログラミングスキルを営業や生産管理に活かし、業務効率化の提案を行ったり、データ分析を通じて業績向上をサポートしたりと、自分が地元で役立てる場面があることを実感しました。
地元で働くことを選んだ理由:新たな挑戦で得た価値
営業と生産管理を兼務する経験を通じて、私は「地元で働く意味」を考えるようになりました。
お客様の声を直接聞き、現場と話し合いながら業務を進める中で、「地元を支える仕事」の大切さに気づいたのです。東京では、自分の仕事がどう役立っているか実感する機会は少なかったですが、地元ではその影響が目に見えました。
また、課題の多い環境だからこそ、新しいスキルを学び、課題解決力を磨く機会に恵まれました。現場の声を受け止めながら、最適な解決策を提案する中で、自分が成長しているのを感じました。
地元で働いて分かったこと:20代で課題を乗り越え得た成長
地元の企業で働き始めてから、私が最も苦労したのは「お客様と現場との調整役」という立場でした。営業としてお客様の要望を聞き取り、それを現場に正確に伝えながら、納期や品質の調整を行うのが主な役割。しかし、現場には現場の事情やこだわりがあり、双方の意見を一致させるのは容易ではありませんでした。
20代だった当時、東京から地元に転職するという決断そのものが大きな挑戦でした。都会での生活に未練がなかったわけではありません。しかし、「地元で自分の力を試してみたい」という気持ちが大きくなり、勇気を出して一歩踏み出したのです。
転職後の現場では、最初の頃は戸惑いと不安の連続でした。例えば、あるお客様が希望した納期が非常に短いスケジュールだったことがありました。その時、現場のリーダーから「どうしてこの期日で了承してしまったんだ?」と責められたことがありました。若手だった私は、相手の事情を十分に説明できず、板挟みになる形で辛い思いをしたのを覚えています。また複雑な製品の納期を知らず、今考えれば現場に無理難題を押し付けていたのかもしれません。
グループの責任者に、生産計画表を渡すと、「こんな紙切れで、製品ができるなら苦労しない」「ものを理解しないで、納期を決める権限はあなたにはない!」などといわれ、計画表を目の前で焼かれたことを今でも覚えています。
(その方とは現在もお付き合いがあります。本人覚えていないとのことです(笑)
それでも、次第に自分なりのやり方を見つけていきました。「現場と同じ目線で話す」ことを心掛けたのです。現場の方々に直接足を運び、製造のプロセスを理解しようと努めました。例えば、「この工程でどのくらいの時間がかかるのか」「どんな方法なら効率を上げられるのか」など、細かく話を聞き、必要であれば自分も作業の手伝いをすることで、現場の人たちと信頼を築いていきました。
このような関係になるまで、半年はかかりました。誰よりも早く出社し現場の進捗状況を実際の目で確かめる。今日、明日の出荷に欠品しそうなものを拾い出す。欠品しそうなものを、前工程に伝える。製品の特長や工程を覚える。。
また、営業の立場ではお客様への説明力を磨くことも欠かせませんでした。製造現場が抱える課題をわかりやすく伝え、可能なスケジュールや品質の限界を誠実に説明することで、相手の納得を得られることが増えていきました。ある案件では、「正直に説明してくれたから信頼できる」と言われ、追加の注文をいただいたこともあります。
特に印象的だったのは、社運を賭けた大型案件での挑戦です。ある半導体メーカーから試作の注文を受けた際、納期が非常にタイトで、現場も疲弊している状況でした。設計込みの受注だったので、設計が遅れるとすべてが遅れる、材料の発注が遅いとすべてが遅れる。部品供給が間に合わなかったらすべてが遅れる状況でした。
この時、私は設計と現場と、協力工場と何度も打ち合わせを行い、スケジュールを細かく見直して、一日単位で進捗を管理しました。また、お客様に対しても、進捗状況を逐一報告し、製造工程の透明性を保つよう努めました。
プロジェクト完了後、お客様から「あなたが頑張ってくれたおかげで信頼できる取引先が増えた」と言われた時は、心から嬉しかったです。また、設計課からも、現場からも、絶対納期までに間に合わないと思ったけど、時間通りに材料の入庫や部品入荷があり計画よりも前倒しで完成することができた!ありがとう!と感謝されたのが、実はお客さんに言われたことよりもうれしかったです。さらに、この案件を機に他の企業からの問い合わせも増え、会社の売り上げに貢献できたのは、大きな自信につながりました。
以前は現場からの信頼がほぼ0でしたがこのころになると、「無理な納期でもあなたの計画ならなんでもできるような気がする」といわれるまでになりました。(私が生産管理を行ってた頃の生産能力は現在も発揮できないとのことです)
のちに、私はこの言葉をヒントに「やる気を出させる」職を選ぶことになります。
振り返れば、こうした経験の積み重ねが、地元での転職を「挑戦」から「誇り」に変えてくれたのだと思います。若い頃は失敗を恐れず、自分を試す気持ちを持っていたからこそ、こうした課題を乗り越えられたのだと感じます。そして、この経験が、私のキャリアの土台を作り上げてくれました。
まとめ:地元で働くことに迷う20代へ伝えたいこと
振り返れば、地元での転職は私にとって未知の挑戦でした。しかし、その経験を通じて、ふるさとで働くことの価値や自分自身の成長を深く実感することができました。営業と生産管理を兼務してとても過酷で、きつく今の時代に合っていない働き方だったと思いますが、でもその困難を乗り越えたからこそ、今があるのだと思います。
もしこの記事を読んでいる方が、地元でのキャリアに迷っているなら、20代なら何でもできる!!ぜひ一歩踏み出してみてください。都会とは異なる環境の中で、地元ならではのやりがいや幸せを見つけられる可能性が広がっています。地元で働く選択が、きっとあなた自身の未来を豊かにしてくれるはずです。そして大企業では絶対味わえない感覚を身に着けてほしいです。もしキャリアに不安があるのならば、ご相談にも乗ります。問い合わせよりメールおまちしております。
また、「ながの仕事物語」では、長野県で働く人々の多様なキャリアや挑戦が紹介されています。自分の経験と重なるエピソードが見つかったり、新しい視点に気づくきっかけとなるかもしれません。転職や地元での働き方に迷っているなら、ぜひ一度目を通してみてください。
私自身、20代での転職が今の仕事に対する姿勢や自分自身の成長につながったと強く感じています。これを読んでいるあなたにも、「ながの仕事物語」を通じて、地元で働くことの魅力や可能性を発見し、自分らしい新しい道を切り拓いていただきたいと思います。
地元で働くという選択が、あなたの未来をより豊かで実りあるものにするきっかけとなりますように。